私どもネットショップは、常日頃皆様に「ありがとうございます」の気持ちをお伝えすることが、なかなか直接にできません。

 しかし感謝の気持ちは、伝えていかないといけないと思っています。それは、「ありがとう」をお伝えすることで、人々の心が優しくなると信じているからです。


 昨今の不安定な情勢の中で、私たちの真摯な思いが大きな輪となって広がり、皆様との絆を感じさせていただけたら、どんなにか素晴らしいことでしょう。 

 こうした願いからネットショップの優良合同店舗が集まり、今回の企画実現の運びとなりました。
 

温かくて、ふしぎな言葉 「ありがとう」

その言葉の持つ、相手を思いやるチカラ、相手から与えられるチカラ。
そして不思議と自分自身にも、自らをいつくしみ、はぐくむチカラを与えてくれる言葉、
それが「ありがとう」です。
そんな優しいチカラが循環していくのをじっと見据えていると、
平凡でささやかな毎日が、どんな劇的なドラマより感動する物語なんだと
つくづく実感できることがあります。

店主もインターネットを通じてお店を開くようになってから、
そんな思いを何度も体験させていただきました。

あなたは「ありがとう」の言葉が素直に言えますか?
    恥ずかしくて言えなかったあの言葉・・・・
    つい言いそびれてしまった感謝の気持ち・・・
    言ってくれて、ありがとう・・・・


   大切な人へのありがとうの気持ちを表すのは簡単な様で
   言いそびれた言葉・心の奥で眠っている言葉かもしれません。 



当店の「ありがとうメッセージ」

不思議な写真集
 
 その写真集を見たのは、もう、かなり前の事だったと思います。
 当時は、まだインターネットでお店を開くなど、わたし自身全く考えも及んでいない時期でした。
 2002年の年初めの事だったと思います。



 氷の結晶の写真集。
 本の題名も覚えていません。
 書店でふと目に止まって、手にとってぱらぱらめくって眺めていました。

 その写真集には様々な形の美しい氷の結晶の顕微鏡写真がページごとに大きく掲載されていて、その下に「ありがとう」「感謝」「きれいだね」「愛」・・・などの言葉が一文字づつ書かれていました。

 ページを繰ると今度は「ばかやろう」「むかつく」・・・などなど、ネガティブな言葉と異様な形の結晶写真が続いていました。


 「なんだろう?」と思って、ちょっと本文を読んでみると、「水には言葉の意味を記憶する能力があり、美しい言葉を投げかけてやった水は、美しい結晶を結ぶ。逆に汚い言葉を浴びせた水はグロテスクでいびつな結晶しか結ばない」というような内容でした。


 「ふーん・・・・」

 なんだか、そこで読みつづける気がしなくなり
本を閉じてしまいました。

 夢のある話だなぁとは思っても、目の前の現実に追われる日々を送っていた自分には、そんな話は奇麗なだけのおとぎ話のようで、気分的にちょっと抵抗があったのかもしれません。

 頭からバカにするというでもなく、なんとなく「自分とは関係のない世界の話なんだね」という風に・・・・






「ありがとう」
父との長い反目

 当時、わたしは「にんにく玉」の仕事はしていませんでした。
 会社(実家)からも車で1時間半ほど離れたところで、自分でビデオ屋さんを経営していて、両親と顔を合わせるのも年に数回あればいいほうという具合で、もう8年近くも過ごしていました。


 というよりも・・・・
 実家に顔を出したくない、出せばまた父とケンカをするだけ。
 父とわたしとは、それまで十年来、そういうような関係で過ごしてきていました。
 
 
 父との諍いはさらに遡って別の仕事、ある田舎町でお弁当屋さんをしていた時からのものでした。父が代表を勤め、わたしは店舗を任されていました。

 「任されていた」というより、お弁当屋さんをはじめてすぐに(今から20年前にもなります)に父が脳腫瘍で倒れ、突然、店と会社の切り盛りをわたし独りでやっていかなければならないようになってしまったのです。


 
 父は幸い、手術で一命は取りとめたものの、長らく半身が麻痺する、言葉が出ないなどの後遺症に悩まされ続け仕事からは身を引きました。その後、予後のために母がつくった「にんにく玉」が、今の当社の製品になりましたが、まだ商品として販売する事になる、かなり前の話です。


 その後、当時まだ存命だった祖父と祖母をひきとって、父と母は、久留米に家を建てて、その田舎町から引越していきました。今思えば、我が家はその時作った借金に長く苦しめられる事になってしまうのですが、わたしも当時、そんな事は知る由もありませんでしたし、これを潮に、もう父も仕事から離れて隠居でもしておいてもらった方がいい、そんな程度に考えるぐらいでした。



 父と母が久留米に越していった後、わたしは文字通り孤軍奮闘で、お弁当屋さんを切り盛りしていきました。今思えば、若くて体力があったからこそ出来たことなのかもしれません。任されているというやりがいもありました。

 が、忙しさはハンパではありませんでした。睡眠時間もろくに取れず、早朝から深夜の1時2時まで立ちずくめで働きました。休みを取れるのは年に一回のお正月ぐらいというような生活を何年間も過ごしていきました。


 お正月には決まって高熱で倒れ寝て過ごす。なのに、営業日にはちゃんと治ってしまう。
気が張っていないと、カラダが壊れてしまうというような生活だったんだと思います。



 ところが、お弁当屋さんの経営はちっとも楽になりません。
それどころか、どんどん苦しくなる一方でした。売上が上がっていっても、実家に送金すると支払いが出来なくなってしまう。実家は住宅ローンの返済を滞らせるわけにいかないので、送金しないわけに行きません。なんとか運転資金を借り入れることが出来ても、そのうちほとんどが、実家の出費に当てられてしまい、お店の資金繰りはどん底のままで、月々の返済だけがふくらんで行きました。



 切り詰めても切り詰めても、全く余裕が出来ませんでした。
 


 そして、その田舎町に高速道路が開通し、それまでの交通の流れが一変してしまい、それまで右肩上がりだった売上も上がらない、それどころか下がりはじめてしまいました。さらに追い討ちを掛けるように大きな競合店がいくつも出来て、もうやっていけないところまで来てしまいました。


 最後の最後、お店を24時間営業にして巻き返しを狙おうと思いました。
 切り詰めながらの24時間営業は、わたしにとっては睡眠できないことを意味していましたが、そんな事はいっていられない状況でした。一日のうち2回、昼のパートさんと夜のパートさんが切り替わるそれぞれ3時間ほどが、わたしが自由にできた時間。そんな生活が数年続きました。



 背水の陣で臨んだ24時間営業、その最後の賭けも、ほんの一時、支払いがスムーズに回るほどでしかありませんでした。今、なんとか回せているだけで、明日の保証は何も無い。お店も老朽化して、本来なら設備の入れ替えや改装もしなくてはならないはずなのに、そのためにさらに借り入れをする事など考えられない状態でした。わたし自身、30歳という若さでありながら、気力だけでは続かない限界も感じはじめていました。



 考えると、その時、わたしは鬼の形相をしていたのではないかと思います。



 両親がたまに店に顔をだすことがありましたが、そんな時、決まって父は、今の店をやめて久留米でお弁当屋さんを新しく作ろうと、当時の私にとっては総毛立つような話をしました。
 そのための資金づくりをどうするのか?今の借金を返しながら新たな借金を抱えて、さらに生活できるようにするために一体いくら売り上げればよいと思っているのか?


 当然ながら、父にも全く目算はありませんでした。
 今でも思いますが、父には商売のセンスがまるでありません。^^;


 切り口上でまくしたてるわたしに、父も意地になって言い争うという関係のまま数年間。
状況はどんどん悪化するのに出口は皆目分からないという状況で、もう、父の顔も見るのがいやになっていました。



 そんな時、ちょうどその田舎町の高速道路の延長・全線開通の時期が迫ってきていたのです。
もし、開通してしまえば、完全に交通の流れから見放されてしまうことはわかっていました。
そうなってしまえば、例え24時間営業を続けてもまた売上が下がってしまう。もう、どこにも切り詰める余地がないのに、売上自体が下がってしまえば最後の破滅まで時間の問題だと思いました。



 それまで会社が借り入れする時も、住宅ローンを組む時も、何の資産もない父が保証人で頼りにしたのは母のお兄さん、わたしにとっての伯父さんでした。父にとっては負い目があり、もう世話にはなりたくなかったのは承知していましたが、わたしは、伯父さんにもう一度助けてもらうように頼んでくれと父に迫りました。


 もう、お弁当屋さん一本ではやっていけない。
 何とか別の業種でやり直さないと、もう限界が見えている。
 父に懇願しましたが、ケンカのタネがひとつ増えただけでした。


 父はあてにならない。
 もう自分で動くしかないんだ。
 そんな思いで、それまでの決算書を全部ひっくり返し、伯父さんに現状を知ってもらうための資料を作り、別の事業をはじめるための計画書といっしょに持っていきました。



 これが一日で父の知るところとなり、反目は決定的になってしまいました。



 結局、それからほどなくしてお弁当屋さんは人手に渡り、父とは決別するつもりで、わたしはひとりビデオ屋さんをはじめ、父は「にんにく玉」を作って売るということをはじめました。



 他人様から、「あいつは両親を捨てた」と後ろ指さされようが、もう、どうでもいい。
 そんな捨て鉢な気分で、父と袂を別ったのを覚えています。




母が倒れた!

 それから8年間ほど、わたしは実家から1時間半ほど離れた福岡都心に程近い場所で、ビデオ店をやっていました。実家には滅多に近寄りませんでした。父と顔をあわせれば大ゲンカになってしまうからです。



 結局、借金の方は、伯父さんの奔走のお陰で、更に大きく膨らんだかわりに、返済期間が大幅にのびて時間の猶予が出来た形になりました。わたしの方にもお店を作った大きな借金が出来て相変わらず苦しい生活に変わりはありませんでした。



 ただ、時間だけは豊富に出来ました。
 座りながらお客様の応対をして、残りの時間は本を読むのもパソコンに向かうのも、テレビを見るのも自由でした。



 父が倒れて、その予後を見ていたので「にんにく玉」の事は気になっていました。実家で父が飲み始めたころ、まだお弁当屋さんのころから、にんにくにまつわる書籍を見つけては読んでみたり、父にもそれを読ませたりしていましたが、それを商売にするという父の行動は、仕事というより遊びのような突飛おしのないものに思えて仕方がありませんでした。



 実家の両親の生活の事は、ずっと気になっていました。
 父は父で、学生時代の同級生に声をかけてすこしづつ販路をひろげているようでしたが、根っからの素人商売で生活が出来るというほどではないようでした。また、実際作る作業の大部分が母の台所仕事で母の苦労を思うと、今でも胸がはりさける思いがします。



 たまににんにくの事を父に伝えに行ったり、パソコンでチラシを作ってやって近所に配って回ったりしてやりましたが、面と向かうと、相変わらずの大喧嘩になり、それからまた半年、1年はお互い連絡も取り合わないという事を繰り返す8年間でした。



 実家は生活のための借金がさらに膨らみ、わたしの方も借金は少しづつ減ってはきているものの実家にお金を送るほどのゆとりは出来ずにいました。



 氷の結晶の写真集を手にとったのは、そんな時期の最後のころでした。



 その年の正月、実家に顔を出した時、ここのところ母の具合がよくないという話を聞きました。
過労とストレスが限界に来ていたのでしょう。



 その頃、嫁ぎ先から離婚した妹が帰ってきていて、両親と同居していました。
 実家は子供たちも一緒の大所帯になっていましたが、相変わらず生活はどん底のようでした。
父と妹の間も生活の苦しさゆえの確執があるようでしたが、その妹から母の様子は折に触れて聞かされていました。



 その直後の3月ごろ、滅多に直接電話してくる事のなかった父が電話してきました。
 母が倒れたというのです。



 取るものも取りあえず実家に行ってみると、母の消耗は目を覆うばかりでした。
 学校から帰ってきた子供たちはお腹をすかせていましたが、家にはお菓子はおろかパン一枚すらありませんでした。



 もう、時間がない。
 どうすればいいのか。
 実家から帰る道々、頭が割れんばかりに考えました。



 それから週一回、店番をバイト君に頼んで、食べ物を買って実家に届ける生活がはじまりました。その日の夕飯を作って、調理が簡単な食材を冷蔵庫につめ、母と妹に献立を伝えて帰りました。やがて週一回が2回、週3回、そして、ほとんど毎日、そうやって実家に通うようになりました。



 その間、にんにくの仕事をどうしたら軌道に乗せることが出来るのか、はじめて猛烈に考えるようになりました。幸い、店に帰ってきてバイト君を帰してからは有り余る時間がありました。



 知り合いに卸し先を見つけようとしたり、にんにくについての今まで調べた知識を書き溜めたり、何かに取り付かれていたように過ごしていたように思います。



 それまで当社にはホームページはありましたが、業者まかせでそのまま放置されていました。
 もとより父にインターネットの知識はまったくありませんでしたので、業者の言うままお金を出して、形だけは出来たものの、その業者が全く連絡もよこさないようになっても、お金を払いつづけていました。



 当時のファイルはまだ、わたしのパソコンの中に保存してあります。
 父なりに思いのたけを綴った文章がありますが、痛ましくて今でも正視することが出来ません。



 それからHTMLの勉強をして、少しづつホームページを作り変えていくようになりました。
いつの間にか実家からお店に帰ってくると、ほとんどその作業に没頭するようになっていました。



 そしてその年の10月に、やっと自分だけでホームページを運営していけるようになりました。



 インターネット通販の学校にも通いました。
 目の飛び出るような出費でしたが、知りたいことは揃っていました。
 その日だけは実家には行けませんが、ホームページのことに没頭できる貴重な時間でした。



 少しずつ受注もはいるようになりました。
 製品作りも間に合いませんでしたが、両親に代わってわたしがやれるようにもなりました。
 仕込みから製品作りまで、お弁当屋さんのころの経験がモノをいいました。
 
 


わたしに「ありがとう」といわせた物

 そのころになっても、父との関係は良好ではありませんでした。
 「おまえは仕事を乗っ取ろうとしている」と言われたこともあります。
 大ゲンカの後、家を後にして帰りの車の中であまりの事に消耗しきったのか泣きが入った事もありました。



 それでもネットショップを続けられたのは、やってみてはじめて直に接するようになった「にんにく玉」を実際に飲んだお客様からいただく、多くのお声があったからでした。

 わたしに
「ありがとう」とお声をかけてくださる、その事に一番癒されていたのは、実はわたし自身でした。凝り固まって冷え切った気持ちを温かく解きほぐしてくれたもの、それはお客様からいただく「ありがとう」の言葉の数々でした。



 ある時、また父と大ゲンカ(それもいつになく激烈な・・・)になりました。
 その時、ふと、本当に不思議なタイミングで

 「しかし、あの件に関しては、お父さん本当に「ありがとう」。それは感謝する」

 という言葉が出ました。



 その時の父の顔は、まるで「鳩が豆鉄砲くらったような」おかしな顔だったのを覚えています。
 長い沈黙のあと、仕事の話にもどって、その日は家を後にしました。
 本当に不思議な瞬間でした。



 お金もないし(それどころか、当時わたしの借金は雪だるまのように膨らんでいました)、まだまだ売上も立っていないけれど、先の希望に思い切って身をゆだねてみても良いのではないか。
 そんなわたしの気持ちが父に伝わったんじゃないかと思います。



 以前なら絶対いえなかったです。はい。
 でも、何かが背中を押してくれて、ふと言えました。



 わたしにそれを言わせてくれたのは、お客様の沢山の「ありがとう」だったんじゃないかと思います。



 それが父と激烈なケンカをした最後の日だったと思います。



 その年、2003年の12月、はじめてネットショップで100万円売上をあげる事が出来ました。




言葉は記憶され伝えらます。たとえ言葉にならなくとも

 「ありがとう」と言葉をかけた水が、やがて美しい結晶を結ぶ。
 あの写真集は、それ以来、目にする機会はありませんでした。



 でも、まったく違った形で、その事に触れる機会がありました。



 つい最近読んだ本で、素粒子理論の空間にまつわる本でした。
 何もない、素粒子ひとつない真空の空間、そこが、実は全くの真空ではなく、つねにエネルギー波が波打ち、新しい素粒子がポップコーンのように生まれては消滅している。

 宇宙とは、エネルギー波に満たされた「真空」に物質が浮かんでいるようなもの。
 このことは、量子学では常識だそうです。



 さらに一歩進んで、エネルギー波は波の性質上、過去の出来事をすべて記憶している。
 そのエネルギーは反響しあい、増幅して物質の特性にも影響をあたえる。



 ややもすれば科学の傍流として扱われがちですが、そのような理論を研究し実験している科学者もひとりやふたりなどではない、という本でした。『ネイチャー』『フィジカル・レビュー』といった権威ある科学雑誌にも、そういった理論は(注釈付きながら)掲載されているといいます。



 そして、そのエネルギー波の記憶、増幅の特性をもっとも保持するのが、
なぜか「水」なのだそうです。
 また、「人間の意識」こそ、実はエネルギー波そのものだという理論が展開されていきます。



 わたしは、そんな話を聞かされても、未だに頭から信じる事が出来ません。
 でも、
「ありがとう」という言葉が口をついて出てくる瞬間。
 それは、貴方の中にエネルギー波が満ち溢れて、そして何かの切っ掛けで結晶に結ばれた瞬間なのかもしれない、そう考えると、とても夢がありますよね。



 言葉は記憶され伝えらます。たとえ言葉にならなくとも

 でも、どうせなら美しい結晶にして残す方が、いいのかもしれませんよ。




すべての人に

「ありがとうございました」

そして、わたしを支えてくださったすべてのお客さまに

「ありがとうございました」

そして試練を与えてくださった「運命の神さま」に感謝します!!